縄文時代の所沢市
所沢市史上より抜粋(数字はページ表示)
草創期
BC8000年 と 早期BC4000年144
市内に皆無である。
県内は、浦和白幡中遺跡など。
前期
BC3000年144
市内においては、わずかに城遺跡の一例が確認されているにすぎない。三軒の住居跡が発見されているが中心部は破壊されていて広場などは不明であった。残されている部分の調査から数十軒規模の集落遺跡であったと推測されている。
中期
BC2000年145
所沢市内では、白旗塚遺跡や膳棚遺跡および西上遺跡がほぼ同様の規模の定住的集落遺跡である。柳瀬川流域にはこのような遺跡が1〜1.5キロ間隔で並び、狭山丘陵内にも高峰遺跡のような中規模の集落遺跡が所在するという密集状態が見られる。
160軒レベルの大集落が県内で発見されている。(嵐山町)
ほとんどが中期後半に途絶え、集落は立地場所を変えて、それぞれ独自に営まれる例が多くなる。遺跡数の減少。
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市内の高峰遺跡や和田遺跡から出土した土器の中には、中部地方の八ヶ岳山麓を中心として分布する土器との強いつながりを示すものが数多く認められる。
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縄文時代の市内の遺跡数の変化
草創期 0
早 期 28
前 期 31
中 期 108
後 期 13
晩 期 0
中期の遺跡数の減少は、気候の寒冷化にあったと考えられている。(年平均−4度と推定)
後期
BC1000年175
後期初頭で13の遺跡。その後晩期末葉まで絶無。これは、奥東京湾の南への後退にともない居住地を変えていったと考えられる。(後期晩期の貝塚は武蔵野台地の東南の縁線に集まって分布している。)ただし、湿地湿原の状態での低地遺跡に居住した可能性があるが、その遺跡の発見は新座市など一部に限られている。