所沢市史の近世史料1と2には、全部で1070の史料がありました。その内三ヶ嶋村関係が134です。その中から江戸時代の三ヶ嶋村の人々の様子がつかみやすそうな8つの史料を、選んでわかりやすくまとめました。

  2002年2月15日から1年生社会科の授業で、実際に使用しました。

 (江戸時代の三ヶ島村という特設単元で、1.5時間の授業)

所沢市史 近世史料1 P8 

7  享保十四年四月二十五日 百姓我儘(わがまま)箇条書(かじょうがき)  の事

    我儘箇条書の事

  

  一、当村(三ヶ嶋堀之内村)の太郎兵衛は、何事も相談せず(勝手に)、い   ろいろな相談事、神様にお参りすること、お祭り、仏教の行事(お彼岸な   ど)、お葬式、会合(かいごう/話し合い)の時に、わがまま過ぎる言葉   が、たびたびあります。

   

  一、(この太郎兵衛は、)当村の三郎右衛門と喧嘩(けんか)して口論(言   い合い)をしました。

  一、(この太郎兵衛は、となり村の)北野村の奥右衛門と喧嘩(けんか)を   しました。

  一、(この太郎兵衛は、現在入間市の)扇子町屋(おおぎまちや)村の清右   衛門と喧嘩(けんか)をしました。

  一(この太郎兵衛は、)宮野斎宮殿(みやのさいのみやどの/三ヶ嶋村の氷   川神社神官)へ踏み込み、わがまま過ぎる言葉をいいました。

  一、(この太郎兵衛は、)三ヶ嶋村中全部の結婚の約束、結婚式、他の場所   とのおつきあいの時(おめでたい時)も、名主がとりしきるべきなのにそ   れを無視して、我儘勝手にその場を「しきる」ことがありました。

  一、今年の二月のお稲荷さんのお祭りの時もそうでしたが、年に何回もある   お祭りのたびに、名主がとりしきるべきなのにそれを無視して、我儘勝手   にその場を「しきる」ことがありました。そこに勘兵衛という者がでてき   てなんとかおさまりました。

   この通り、喧嘩口論をしたり、百姓に似合わない短い刀を腰にさしていて、  この三ヶ嶋村や他の村に出て行きお金を借りています。(お金を返してくれ  と言うと)我儘勝手な返事をして、全然「らち」があきません(無視されま  す)し、返してくれません。このように村中が迷惑しています。

   こうした理由で、今後は太郎兵衛の言なりにならないように、一切味方に  ならないぞと村中連判(村のみんなの指で押した「はんこ/印」)を用意し  て訴えます。以上です。

  

享保十四年の子(ねずみ)年四月二十五日

                 堀之内村

                       全部の百姓

辻 新 助 様

河原富右衛門様

    

解  説 

 堀之内村の組頭の太郎兵衛が、様々な横暴を働いたので、村中の百姓が怒って村の領主である辻新助と河原富右衛門(地頭方という役目の2人)へ訴え出ている文書です。

 

 

 

 

 

所沢市史 近世史料2 P760 

512  文政九年二月十七日 凶作飢人夫食御下げ願

  

ねがいたてまつりそうろう

     お恐れながら書き付けをもって願奉り候  

ひらいわうぜん ぶしゅういるまぐん まござえもん

    御代官の平岩右膳様が支配している武州入間郡の糀谷村の名主孫左衛門

ちょううえもん じろざえもん むさしひでのじょう

   と、同じく右膳様支配の三ヶ嶋村名主の長右衛門と次郎左衛門、武蔵秀

之丞様が支配している三ヶ嶋村名主の源左衛門と、同じく秀之丞様支配ひさまつひこざえもん の堀之内村名主と、久松彦左衛門様支配している三ヶ嶋村と堀口村の名主おくうえもん奥右衛門と、このあとに書かれた名前のものたち一同が申し上げます。

    私たち村の百姓たちはこの村に田畑をもち、農業をして年貢を払い続

けてきました。とり

    去る酉年は、作物がよくとれませんでした。夏と秋の2回の年貢支払い

をすべて済ますことができませんでした。このようなわけで、前の年に今年の分として先に払いました年貢と御用金は、返してくださるとの約束でしたので、返していただいてそれで今年の年貢の支払いを済ませたいと思います。さへいじ三ヶ嶋村の名主左平治を代表にして、このお願いを申し上げます。

    

ここのところ貧しく困った村人が、最近凶作が続くために、去る酉年は、

   田畑がないと同じ状態です。今までは、年貢をまけてくれたり、食料を貸

してくださるなどして、助けてもらいました。おかげで、何とかやってこれましたが、今年は、食料もなくなりどうにもなりません。田畑を質入れしたり、日雇いの仕事に出たり、妻子が働きに出たりして、食いつないでおります。

    前の年に払いました年貢と御用金の分を返していただき、それをもって

今年の年貢分をすべて払います。また、あまったお金は、飢えている人たちに食料代としていきたいと思います。みんなの願いです。なにとぞ、ご慈悲をもって、みんなのお願いをきいていただきたいと思います。返していただけば、飢えている人たちの命もながらえるはずです。ご慈ろうにゃくなんにょ

悲がいただければ、私たち百姓老若男女すべてありがたがるはずです。

     (年月日と宛先などは省略) 

              三ヶ嶋村  名主 左平治

解  説

 三ヶ嶋村は、一つの村でも支配する武士が何人かいました。それぞれを支配している武士に対して、百姓たちがお願いをしている文書です。

 前の年に「先納(せんのう)」といって、今年の年貢と御用金を納めていました。それを一度返してもらって、そこからあらためて今年の分の年貢と御用金を納めますという内容です。

 また、納めたあとの残りのお金で、飢えている村人を救ってあげたいと言っています。「夫食(ふじき)」とは、食料のことです。飢えた人に食料を与えて救いたいのです。

 ぜひ返してくださいとは強く言っていませんが、返してくだされば、飢えている人の命が救われ、村中の老若男女(年寄りも若いのも/子供も、男も女も)すべてが喜びますと表現しています。これでは、ふつうの感覚ならば、ぜひ返してあげなくてはと支配している武士たちは思うはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

所沢市史 近世史料1 P10 

 ますながのいっけんごようにっき のひかえちょうかんのいち

12  文政八年正月 三ヶ嶋村増永一件御用日記之控帳巻之壱

  「三ヶ嶋村一件  巻の壱」

    三ヶ嶋村増永一件

    御 用 日 記 之 控 帳

そがぶんごのかみさま  おんかかり

    曽我豊後守様御懸り

 

いぬ

    文政九戌年八月十三日より十月十二日まで

みわまんぞうさま    おのたいきちさま  ごぎんみまわり

    三輪満蔵様、小野泰吉様御吟味まわり

    増永一件日記  紙数百四十一枚   壱

  このたび私が、江戸に出頭したときに見ていただけるように、日記を無心に

らんぴつぐあん

  書いておきました。誠に、乱筆愚案にして(文章が乱れ、おろかな内容で)

  わかりづらいので、他の人に見せないようにしてください。

あらじゅくなかまちのすまい

新宿仲町之住

     

   木下孫兵衛

※以下省略(膨大な文書量です。)

解  説

 三ヶ嶋村の地頭(年貢を集めたり、犯罪者を取り締まる仕事をする。)の沢氏(旗本(将軍の直属の家来で格が上の武士)でした。)が、年貢を値上げしようとした。誰がいくらの年貢を払うのかが載っている帳面を書き替えてしまったのです。

 このことに、今の村長にあたる名主の庄左衛門(しょうざえもん)も、沢氏と手を組み、年貢の値上げに協力した。さらに、余った年貢を本来は百姓たちに返すものをごまかしていただいてしまった。

 こんなことは許されないと、三ヶ嶋村の村民30人あまりが訴え出ました。

 これは、「村方騒動(むらかたそうどう)」といっていわゆる「百姓一揆」まではいたらないが、村人が領主の武士に反抗したことの記録です。

 この記録は、なんと百四十一枚になるもので、訴え出た中心人物の木下藤助が書きました。(木下の立場で書かれてあります。)

 三ヶ嶋村でも、百姓たちが団結して、年貢をかんたんに値上げしようとする領主に抵抗したということです。がんばっています。

 結果としては、この「村方騒動」は、翌年の秋まで続いたそうです。

 

 

 

 

 

 

所沢市史 近世史料1 P8 

8  享保十六年二月 村高反別覚(むらだかたんべつおぼえ)

    村高反別覚  享保十六年亥年二月改 

  

じょうでん  ちょう  たん  せ     ぶ

  一 上田 合(あわせて) 2町1反9畝26歩

ちゅうでん

  一 中田 合(あわせて)    5反3畝8歩

   

げでん

  一 下田 合(あわせて) 1町5反7畝20歩

   

     

  一 下田 3畝28歩 溜井分(ためいぶん)

   

じょうばた ちょう  たん  せ     ぶ

  一 上畑 合(あわせて) 4町2反4畝10歩

   

ちゅうばた

  一 中畑 合(あわせて) 2町7反1畝26歩

   

げばた

  一 下畑 合(あわせて) 13町4畝8歩

   

やしき       

  一 屋敷 合(あわせて) 5反6畝23歩

     

  一 下畑 合(あわせて) 1町2反6畝7歩は不作(ふさく/つくっていない)

    

解 説

享保16年の三ヶ嶋堀之内村の田んぼと畑の面積が記されています。

 屋敷の広さも、村中あわせた数字ですが出ています。

計算してみたい人のために「江戸時代の面積表示(単位)」

1町=約100a(アール) 1町=10反1反=約 10a(アール) 1反=10畝1畝=約  1a(アール) 1畝=30歩1歩=約3.3平方メートル(=1坪(つぼ)/たたみ2畳分)
※1a(アール)は、

1a=

10

m×10mの正方形

100

10

100

 

10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

所沢市史 近世史料1 P208 

かえい おたかば  かかし           ねがいしょ

91 嘉永二年八月 御鷹場案山子につき願書

たてまつりそうろう

    おおそれながら書き付けをもって申上げ奉り候

  

おたかばない

 一、御鷹場内の入間郡三ヶ嶋村、ならびに同村新田の村役人たちの代表である

 

なぬし じんうえもん もうしあげたてまつりそうろう

 三ヶ嶋村の名主甚右衛門が申上げ奉り候、今年は、かもやいろいろな鳥がおび

 ただしく群をなし、せっかく植えた作物を荒らし、私たちの所の百姓たちが大

 変困っています。

かかし

  例年通り案山子を用意したいと私たち村役人に申し出てきています。なにと

じ ひ

 ぞ、ご慈悲をもって案山子をかけることをお許しください。そうなれば、あり

 がたき幸せでございます。以上です。

嘉永二年の酉(とり)年八月

              右の村役人の代表

    名主  甚右衛門

    御鷹場ご案内

     糀谷村       新藤孫左衛門  様

     水子村(富士見市)

御  陣  屋 様

解  説

 鷹(たか)狩りは、子供の頃から飼い慣らした鷹を使って、狩りをすることです。鷹は、肉食ですから小鳥やへび、野ねずみなどをおそって、飼い主の所に戻ってきます。

 三ヶ嶋村は、「鷹場」でした。江戸から武士たちが、たびたび鷹狩りをするために、やってきました。武士本来の「戦う」訓練の一つとして鷹狩りが行われたのですが、今の「レジャー」の一つのような感じもします。

 幕府の決まりでは、鷹場では、「案山子(かかし)」を立てては行けないことになっています。(三ヶ嶋村では農作業をしているのになぁ。)かかしは、人間に似せた人形です。

 鳥たちはかかしを見て、人間が畑にいると勘違いをして近寄ってこなくなるので立てました。鳥たちは、遠慮なく麦などの作物を食べてしまうからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

所沢市史 近世史料1 P9 

おくうえもん  むらだいかんにんめいたっしょ

11  申年十二月二十九日 奥右衛門村代官任命達書

                      控書(ひかえがき)

  

一 三ヶ嶋村の奥右衛門は、このたび新堀村と大鐘村と三ヶ嶋村と堀之内村の4

  つの村を支配する役所の村の代官になるようおおせつかりました。(命じら 

  れたのていねい語)

  また、刀を拝領し(いただき)「近習格(きんじゅうかく)」になるようお

  おせつかりました。

  もちろん三ヶ嶋村の名主役(なぬしやく/今の村長)も合わせておおせつか

  りました。

 

  このことを、よく心得てすべてのことにあたるようにしなさいとのことです。

  この決まり事を、村々に知らせるようにおおせつかりました。滞(とどこお)

  りなく順々に知らせていくようにします。以上。

      申年十二月二十九日 

        吉田仁左衛門

        川崎伊左衛門

新堀村   名 主

組 頭百 姓

    

堀之内村  組 頭

   

百 姓大鐘村   組 頭 百 姓三ヶ嶋村  百 姓 共江(どもへ)

解  説

 三ヶ嶋村の名主の奥右衛門が、武蔵孫之丞(むさしまごのじょう/支配している武士で、旗本(将軍の直属の家来で格が上の武士)でした。)の支配する4つの村の「知行所代官(ちぎょうしょだいかん)」に任命されたということです。

 この武蔵孫之丞のかわりに、年貢を集めたり、犯罪者をとりしまるなどの仕事をする仕事とを任されたのが、奥右衛門ということです。

 奥右衛門は、名主ですから村の有力者です。しかし、身分は百姓です。おどろくことに、代官に任命されたので、刀をさすことを許されました。また、「近習格」という武蔵孫之丞の近くにいていつでも顔を合わせられるという武士の立場も、許されました。百姓にもかかわず、武士とかわらない立場を許されました。

 

所沢市史 近世史料1 P208 

あんせい おんかしつけやくしょのきんすうけとりのおぼえ

92 安政五年九月六日 御貸付役所金子請取覚

おぼえ

    覚

  

  一、金二十五両

   

  この二十五両は、このたび馬喰町(ばくろうちょう/江戸にある)の御貸付

 役所(おんかしつけやくしょ/旗本にお金を貸す役所)へ申し出て、たしかに

 私は受け取りました。

  しかる上は、(三ヶ嶋村のみんなから集めてつくる5両の)お金ができしだ

へんさい

 い、まちがいなくこの役所に返済いたします。

  

安政五年の午(うま)年九月六日

     地頭所内(この領地の年貢を取る武士)

たなか   げんうえもん   田中 源右衛門  やまかたよんかそん   としばん

                 山方四ヶ村 年番

                  三ヶ嶋村

なぬし   じんうえもん   名主 甚右衛門 殿

    

解 説

お金に困った旗本の田中源右衛門が、馬喰町貸付役所から金25両を借りた。立場は、三ヶ島村の地頭です。地頭とは、昔の鎌倉時代の武士の役人の名前です。つまり、この三ヶ島村から年貢をとることのできる武士という意味です。

 この立場を利用して、三ヶ嶋村の名主甚右衛門に、25両のお金を用意しくれと命じました。ただし、三ヶ嶋村だけで25両を用意するのではなく、「山方4ヶ村」とあるので、三ヶ嶋村を含めて4つの村で用意することになります。

 そして、そのお金が出来しだい貸付役所に25両を返しますと約束した文書です。田中源右衛門が、25両を横取りするというのでは村人も納得しないので、4つの村が用意した25両を役所に返済するためですと説明しています。

 このころは、幕末です。どの武士たちもお金がなくて苦労していたようです。

旗本(はたもと) 江戸幕府徳川将軍の直属の家来で、将軍と顔を合わせてあい

さつできる武士。将軍にあいさつできない「御家人」より格は上です。

 

 

 

 

 

所沢市史 近世史料1 P124 

てっぽうあらためしょうもん

16  享保十三年七月 鉄砲改め証文

  

さしあげもうす いち ?      差上ヶ申一

一  このたび(鉄砲)改め(持っているかどうかのチェック)をせよというご

  命令ですが、毎度証文を差し上げているとおり、鉄砲を持っている者は、昔

  からの決まりとおり三ヶ嶋村には一人もいませんでした。

社領(三ヶ嶋村の中のどこか?の神社の領地)も改めたところ、鉄砲

  を持っていないとのことです。

   もしも鉄砲を持っている者がいたとなれば、その者は申すに及ばず、名主

  ・五人組までも、どんな厳しい罰を命じられても一言も言いわけをせず受け

  止めます。

   この証文に書かれてあることは守ります。

       享保十三申年七月

ぶしゅういるまぐん

                  武州入間郡三ヶ嶋村  

                         名主 源兵衛

 げんべえ金右衛門 きんうえもん作左衛門 さくざえもん三左衛門 みつざえもん庄兵衛 しょうべえ惣百姓代  そうひゃくしょうだいさわかつのじょうさまおんない澤勝之丞様御内

兵衛殿

鶴川

右衛門殿

解  説

江戸時代は、庶民(農民)の鉄砲所持は禁止されました。しかし、猟師さんの鉄砲と、田畑を荒らす鳥や動物がいた場合にそれを撃つための鉄砲だけは、許可されました。ただし、必ず毎年、村を支配する役所に届け出る必要がありました。  この証文は、鉄砲はありませんでしたと誓約(せいやく)したものです。

 証文の

は、虫に食われてしまったか、やぶれていたりして、読むことがで

きない部分です。江戸時代のこうした文書は、保存の状態によって、虫に食われてしまうこともありました。ちなみに和紙の原料は「木」です。

澤勝之丞とは、三ヶ嶋村の領主の旗本です。ちなみに、妙善院に澤氏の墓があります。

 

 

所沢市史 近世史料1 P125 

ごんざえもん  むらのぞき いっけん      もうしわたしうけしょ

19  寛政七年四月 権左衛門村除き一件につき申渡請書

  

あいただしのうえもうしわたす相糺之上申渡(よく質問/取り調べをしたうえで判決を言い渡す) げんざえもん

一  訴えてきた権左衛門よ、その方(源左衛門の)組合の者たちにつき合いを

しょううえもん

  除かれ(村八分にされ)た。この場合すぐに名主(今の村長)の庄右衛門の

  所へ行き、(村八分になってすみませんと)わびるべきだった。ところが、

  名主も通さずにいきなり(村八分にした)他の者が悪いと、支配する武士の

やどあず

  役所に訴え出た。この行動は、ふらち(ひどい・悪い)なので、宿預かりを

  申し渡す。

       うさぎ年の四月六日

ねがいびとのひゃくしょう

                      願人百姓

権左衛門 ごんざえもん(途中省略)名主  庄右衛門(途中省略)ご地頭(支配の武士)様

解  説

三ヶ嶋村の源左衛門組の百姓たちが、権左衛門を村除き(村八分を)した。ところが、この権左衛門が名主(村長)を通さずに、支配する武士の役所へ村八分にした方が悪いと訴え出た。この事件に対して、支配する武士に、名主と関係者たちで、権左衛門をこのように処分したと報告した文書です。

 途中省略しましたが、この権左衛門を村八分にしたのは、15人の百姓たちということが書いてありました。また、百姓たちは村の中でいくつかの組合をつくっていることがわかります。この権左衛門のいた組は、源左衛門という百姓が組頭(組合のリーダー)で、権左衛門が悪いと証言して、自分の家にしばらく預かると言っています。また、なぜ権左衛門が村八分になったかは、書いてありませんでした。

この文書から読みとれる村のしくみ

くみがしら

名主(村長)−

組頭(組合のリーダー) 百姓代(百姓代表)− 百姓たち

または庄屋

 

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