60日ごとにめぐってくるの庚申の日に、信仰上の理由から寝ずに夜を明かすという慣習が広まって、各地に講が作られた。そして、これらの講では庚申待を供養する目的で庚申塔の造立がさかんに行われた。

愛宕山交差点
天明2年(1782年)
右は江戸みち
左は大和田みち

下安松399
元禄10年(1697年)

和田八雲神社
享保2年(1717年)

 昔の人々にとって、馬や牛は大切な生き物であり、その供養や馬の道中の安全などを願って作られたものといわれている。

舟型
和田八雲神社
享保2年(1717年)

馬頭観音
庚申塔
地蔵菩薩
和田延命地蔵

下安松1170−2
宝暦3年(1753年)

 右本郷道 左日比田道と書かれている

平安時代ころより、信者の見がわりとなって苦を引き受けるという身がわり地蔵への信仰へ発展した。子供を守るとも、旅人を守るともいわれている。
和田子育て地蔵

下安松
享保元年、安永10年、年不明の3対がある

西原共同墓地
年不明

六地蔵

長源寺境内
明治5年(1872)

結界石

長源寺門前
文化7年(1810年)

道標

安松中学校
大正10年
(1921)

(右)
大正十年九月

(正)
向 右 牛沼柳瀬村

(左)
向 右 所澤町
   左 飛行場富岡村
 

「葷」というのはにんにく、にら、ねぎなどのにおいの強い野菜のことで修行の妨げになるので禁止という意味である

不許葷酒入山門

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庚申塔

馬頭観音

地蔵菩薩

結界石

道標

石造物
何のためにどんな形で使われていたのだろうか。