中氷川神社
《由来》
『古事記』に記される時代である弥生時代〜古墳時代に、出雲族は現在の長野県諏訪地方に移り住んできました。その支族が関東平野方面に進出したことにより、西多摩郡氷川村(現在の奥多摩町)に氷川神社(上氷川神社・奥氷川神社)を祀りました。その後、出雲族の子孫はさらに広がり、当時奥多摩の地から最も発展度の高かった所沢の地に氷川神を祀りました。後に、足立郡(現在のさいたま市方面)の発展に伴い、大宮の地に移されました。そこで、大宮の地の社を氷川神社(武蔵の国一の宮)と呼び、所沢の地の社を奥多摩との中間に位置することから中氷川神社と呼ぶようになりました。ここに祀られる神は、怪力で有名な須佐之男命(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナダヒメミコト)、大黒様で知られる大國主神(オオクニヌシノミコト)です。氷川神社は全国に380社が祀られています。
《歴史》
崇神天皇の時代に武蔵国造の崇敬を厚く受けていたようです。平安時代の延喜式に武蔵国四十四座、入間郡五座として記載されています。後鳥羽上皇の時代に、山口領主山口家継が社殿造営。南北朝時代に、山口城主山口高治が社殿大営繕。その後、兵火により焼失するも、山口城主山口高忠が社殿造営。徳川歴代将軍からは、社領四石三斗を拝領しています。
《国家神道と戦後》
明治維新により、国家の宗教は神道とされました(神社は神道という宗教でお寺は仏教)。これを国家神道といいます。明治初期には、廃仏毀釈という運動が起こり、寺は大打撃を受けました。国家に保護された神道は、大きな力を持つようになりますが、それも日本が太平洋戦争に敗北して一変します。日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、神社の祭を視察するため、全国の神社の中から中氷川神社を選びました。1945年11月15日、GHQ視察団がやってきました。日本軍や天皇制と神社との関係をGHQは調べていたのです。その結果、同年12月15日『神道指令』がGHQより出され、国家神道としての神社のあり方は改められました。しかし、国民生活に根付いた神社の存在は否定されることはなく、現在のように初詣・お宮参り・七五三など、人々の願いや信仰の対象となっています。