埼玉西南部の所沢市から三芳町に広がる県指定旧跡「三富開拓地割遺跡」は、元禄年間(江戸時代中ごろ)に川越藩主柳沢吉保が、家臣の曽根権太夫に命じて開拓した計画的な新田で、開拓以来300年を経た現在も整然とした1400haの美しい地割景観が残されています。
■三富新田の地割り■
三富の開拓は、幅六間の道を縦横に開くことから始められ、この道の両側を間口40間(約72m)、奥行375間(約675m)の短冊状に区画し、一戸あたり五町歩(約5ha)ずつ配分した。道路に面した表側を屋敷地として、その次に耕地を、1番後方を雑木林とした。
家のまわりを囲む屋敷林には、竹、けやき、杉、ひのき、樫などが植えられ、防風の役目を果たしました。
◎竹・・・しっかりと根がはり地震に強い。農具やかごなど竹細工の材料に利用できる。
◎けやき・・・高木で枝が広がっているため、夏は日陰を作り、冬には葉が落ちて木洩れ日を家の内部に取り入れられる。
◎杉・ひのき・けやき・・・建築材料として利用したり、売ったりできる。
◎樫・・・火に強く、隣からの飛び火を防げる。飢饉の時は、樫の実(じんたんぼ)を食用と出来る。
というように、樹木それぞれの特性を生かした植林がなされ利用された。
〜屋敷地〜
〜耕地〜
◎1日1人分の労働範囲の目安となる五畝単位に区画された。
◎畑境に植えられたお茶の木は、畑の土が強風で飛ばされないよう防風の役割をするとともに、商品作物としても有効であった。
〜雑木林〜
◎ナラ・エゴ・赤松などが育てられた。
◎防風林・燃料となる薪・肥料となる堆肥となる落葉の供給源
◎15〜25年をサイクルとして雑木の伐採と若木の育成が農民自身の手によって行われた。
参考資料:三富新田の開拓・・・・三芳町教育委員会